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毎日を自由にのびのび生きていく【第5回】人生の気づきをくれた、豊かな住まい。vol.4

長崎県佐世保市を中心に新築注文住宅や戸建てリノベーションの建築会社As designを経営している私が日々思うことを率直に書いていく日記のような綴りの第5回目です。

みなさんこんにちは、As designの代表 亀野明子です。

 

梅雨の時期に入り不安定なお天気が続いていますが皆さんいかがお過ごしでしょうか。

今年の梅雨もなかなか雨が降らず佐世保の水不足が少し心配になりますが、

私たち工事従事者にとっては、雨の少ない梅雨は工事スケジュールの変更が少なく助かっております。

仕事がら常に天気予報を見ている私。

梅雨の時期の週間天気予報はおおむね1週間ずっと「曇りのち雨」

この読めない天気予報の中スケジュールを立てて

0からモノを作り上げる家づくりの現場はとても大変だけどやりがいのある仕事だなと思っています。

冬の寒さや夏の暑さ・台風や地震などの自然災害から身を守ってくれる丈夫な家。

各現場ではいろんな職人さんたちと一緒に協力して住んで快適な家をつくっています。

 

さて、本編に戻って人生の気づきをくれた、豊かな住まい。vol.4の始まりです。

 

第1回をまだ読んでいない方はこちらから読んでみてください。↓

【第1回】毎日を自由にのびのび生きていくvol.1

 

 

佐世保へ帰る

 

短大を卒業して佐世保に帰ってきた私はしばらく自由を満喫してしていました。

母も私の短大卒業とほぼ同じタイミングで仕事を辞めてカフェを経営する準備をしていて、

初めの頃は「お母さんも少しゆっくりするし、あきちゃんもしばらくのんびりしたら〜。」と言っていた母。

その言葉を間に受けてしばらくのんびりしていた私でしたが、

私の「しばらく」と母の「しばらく」の期間の感覚に相違があったのか

半年〜1年くらいが経とうとしていたある日

「いい加減さすがに働いたら!?お母さん探してくるけん!」

と全く動き出す気配のない私に代わって働き先を見つけてきたのでした。笑

ちなみに母は、私と違って子供の頃から早く働きたくて仕方がなかったそうです。

理由は自分のお金で自由に暮らしたいからということでした。

 

 

 

祖母の思い出

 

母が早く自立したかった理由の一つに祖母との関係があるようです。

母の母(私にとっての祖母)は昔の人にしては少し変わっていて、

外に働きに出て人と話すのが好きで、家の中でじっとしていることができないタイプで料理も得意ではない人でした。

母が子供の頃も仕事に出て家にはほぼおらず、運動会のお弁当ですら仕出のお弁当だったそうです。

子供の母は祖母(私の曽祖母)から「あんたのお母さんは鉄砲玉やけん。一回出てったらなかなか帰って来らっさんけんね。」といつも言われていたそうです。

私が子供の頃もなかなか強烈なキャラクターでよく喧嘩をしていました。

道を歩く全く知らない人にもガンガン話しかけ、「うちの娘はどうのこうの・・。」と相手の反応お構いなしで話続けて、隣で「迷惑やけんやめてよ!まじ信じられん!」と怒る私たち姉妹弟の言葉は全く耳に入りません。

家に遊びに来た弟の友達たちにも「あんたたち足の汚かー」と言って靴下を脱がせ、その結果みんな靴下を忘れて帰り、家には誰のかわからない汚い靴下が何足も残されていました。

私の友達が遊びに誘いに家に来てくれた時も「あきちゃんはおらっさんよ。」と平気で嘘をついて追い返えそうとしたり、と縦横無尽の行いでした。笑

そんな祖母の行動も母から見るとまだまだ甘いらしく、

「ばあちゃんも年取ってだいぶ体力も衰えとらすけん、あんたたちまだ全然マシやけん。

お母さんなんか、『スミコぉ!早よ帰って来んねー!』って言って公園ば、ほうき持って走って追いかけて来よらしたっちゃけん。」

と、まるでサザエさんの世界です。笑

母子家庭の私たちにとって祖母の存在はとても大きなモノでした。

祖母にとって孫は私たちだけだったため、祖母の時間もお金も愛情も全て私たちに注がれていました。

そのおかげで私たちは無事学校を卒業してのびのび生きていくことができていたんだなと、

大人になった今とても深く感謝しています。

強烈なキャラクターでめちゃくちゃ喧嘩もしたけど個性的で面白くってやっぱり大好きなおばあちゃんでした。

 

 

 

母の仕事

 

話がだいぶ脱線してしまいましたが、そんな祖母に育てられた母は早く自立したいと考えていたようで

高校を卒業してすぐ就職をします。

それが佐世保の中心地にある四ヶ町アーケードの中のジャスコ(イオン)でした。

このジャスコは九州の中で一番古く、駐車場のない市街地に立地した地下1階地上8階建てのビル型の全国的にもとても珍しい店舗でした。

残念ながら建物の老朽化に伴って2022年2月惜しまれながら閉店となりました。

跡地についてはマンション建設が予定されているそうで、その1階部分にイオンが入るそうです。

生まれた時からあって、母が働いていたということもあり、子供の頃からよく行っていた場所なので、形は変わりますが無くならなくてよかったなと思っています。

1974年(昭和49年)母が新卒で入社した時、オープニングスタッフだったそうで若い新卒の同期がたくさんいてとても働くのが楽しかったと話していました。

当時は1Fのエントランスにグランドピアノが置いてあったりと高級なデパートのような設だったそうです。

結婚して私を出産した後、一旦ジャスコを辞めますが再びパートとして1Fの若い女性向けのアパレル店舗で勤務していました。

そのため、私は小学生の頃から大人の女性用の服を買ってもらって着ていたので周りのお友達からはいつも服がオシャレと言ってもらっていました。

私が中学を卒後する前後あたりのある日、母は隣の玉屋の中にある女性向けのアパレル店舗に転職します。

母曰く「ジャスコでものすごく売るパートがいると噂になっとって、お母さんヘッドハンティングされたとよー。すごかやろ。」とのことでした。

玉屋に行ってからも洋服を売る母は楽しく働いていたようです。

「お母さんは、胴体が円柱形でまんまるやけんフレアスカート履いとったら、めちゃくちゃ綺麗なフレアができるけん。それ見てみんな『それちょうだい』って買わすっちゃんねー。」と自慢げに話していました。

 

図解:母とフレアスカートの関係

 

また、昔から割とぽっちゃりしている母ですが胴体は太っても手首や足首は細いままなのでスカートを履いていると太っているのがバレません。

今は流石にデブに拍車がかかっているので手首と足首が異様に細い太ったおばさんです。笑

足首の細いドラゴンボールのやじろべえに似ている母

 

ジャスコのおもちゃ売り場で働く

 

こうして書いていると母は昔から洋服を売る仕事をしていて、そのせいか妹もずっとアパレル勤務で職場で出会った妹の夫も今現在メンズアパレルの会社を経営していたり、母の再婚相手も元々東京でずっとアパレルのショップを運営していたりと、よく考えると私の周りには衣服を扱う仕事をしている人が多いのですが私自身が衣料系で働こうと思ったことが全くないのに気がつきました。

「そういえばなんで一回も衣料系で働かなかったのかなぁ」と考えてみた結果、多分洋服屋さんで働いたら服買いすぎて破産するって思ったのかなと思いました。

私は基本的になんでも即決即断即行動なので欲しいと思った瞬間にはもう買っています。

そんな私が物欲を常に刺激される職場で働いてしまったら入ってくるお金よりも確実に出ていくお金が多くなり過ぎて恐ろしいことになるというのを無意識に考えていたのかもしれません。

賢いな私。

だいぶ脱線しましたが、そんなこんなで母の知り合いの多いジャスコの中のおもちゃ売り場で人を募集していると話を聞いて私に紹介をしてくれ、いよいよ働くことになります。

ジャスコのおもちゃ売り場では子供向けのおもちゃやサンリオなどの文具・パーティグッズやゲームなど様々な商品がたくさん並べられ、まずは陳列を把握するところから始まりました。

売り場のどこにどんな商品があるのか隅から隅まで見て回ると本当にいろんな商品があってとても面白かったのを覚えています。

子供向けの商品だけではなく、ある程度の年齢以上の組み立ての難しそうなプラモデルのパーツや塗装の商品などは見ているだけて楽しかったです。

ある程度、売り場を覚えた後はレジの操作です。レジの操作は最終的に試験もありトレナーの人とマンツーマンで接客からレジ操作まで一連の流れでレクチャーを受けます。

これらの教育を私はすんなり覚えていきます。

覚えも早くすぐに考えて行動できる私は、職場の人からも「あきちゃん覚えも早いしジャスコは試験を受ければどんどん給料上がっていくからいいよ。」と言われ「確かにいいな。私そういうの得意そうだし」と長く働くことを考えていたのですがここで再び母から「市役所の臨時職員の枠が空いてるみたいだからあきちゃん行ってきたら?」とまたもや母の勧めで最初の転職をします。

今思うと、ジャスコでずっと働くのもアリだったんじゃないかなと思う私もいます。

試験を受けて昇進して、今のような波瀾万丈の人生とは真逆の平和で安心なちゃんとした人生になっていたんじゃないかなと思ったりして、人生どこに分岐があってどこでどうなるかわからないのが本当に面白いですね。

 

お気に入りの器とパン屋さんでパンを頬張る私

次回:母の再婚と引越し

 

昔のことを思い出しながら書いていると次から次にいろんなことを思い出してしまって、なかなか引越しの話が進まなくてすみません。笑

生きていると人はいろんな選択肢を意識的にも無意識的にも選んで人生を進めているんだなと改めて思います。

私は自分の中で大切なモノがいつも決まっていてこれがブレることが全くないので、いつも今が一番幸せだと思って生きています。

どんな時も頭の中に漠然とある考えがあります。

「私の人生は私が生きている限り続いていく物語。

だから、私の人生の物語においてはどんなに偉い人でもお金持ちの人でも私以外の人間は脇役でしかない。

最後にこの本を閉じるときに『あー面白かった。』と言って終わりたいな。」

人は特に何も使命を持たずに生まれてきていると思っています。

私は死がやってくるまでのこの「壮大な暇つぶし」を真剣に本気で面白く生きていきたいです。

 

次回の更新もお楽しみに。

つづく

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